menu list買取商品 - 余市 2000’s シングルモルト ニッカ
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余市 2000’s シングルモルト ニッカの高価買取致します
余市 2000’s シングルモルト ニッカのご紹介
買取参考価格 | 9700円前後
生産国 | 日本 |
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生産者名 | 余市蒸留所 |
地方 | 北海道 |
地区 | 余市町 |
分類 | シングルモルト |
タイプ | 500ml/57% |
蒸溜所限定で販売された「シングルモルト余市2000’s」は、2000年から2009年の余市モルトを厳選してブレンドしたシングルモルトウイスキーです。
フルーティーな香りと、甘いオークのウッディな香りにピートが調和した特別な飲み心地で、余市ならではの複雑で力強いしっかりとしたピートが引き締める少しビターな味わいが特徴です。
冷たく澄んだ北の空気と、朝夕の霧に包まれる余市蒸留所の貯蔵庫で眠り、熟成を経た石炭直火蒸留由来の重厚で豊かな味わいをお愉しみいただけます。
余市 2000’s シングルモルト ニッカの歴史
ビターな風味が楽しめるシングルモルトウイスキー
■余市蒸溜所限定販売の人気ウイスキー
「シングルモルト余市2000s」は、余市蒸溜所で2000年から2009年にかけて製造・熟成された余市モルトを厳選し、ブレンドして造られたシングルモルトウイスキーです。
余市蒸溜所限定販売のため、市場に出た本数が少なくファンの間では今も人気の高い商品となっています。
「シングルモルト余市2000s」は「余市1980s」と「余市1990s」の3シリーズのうちの1本で、「余市2000s」がその中でも最も安価なお値段ですが、それでも500mlで6500円程度と高価です。
しかしながら、その風味には何とも言えない美味しさが漂います。
ストレートでいただく場合は、ぶどうのような香りを強く感じ、まず口の中に真っ先に広がるのが特徴です。
ウイスキー特有のピートの香りは、その後からやってきて、多少の渋みや塩辛さがあるものの、ぶどうの甘さと酸味があいまった風味が味わえる逸品です。
ピートの香りが余市モルトらしさの本文ですが、「シングルモルト余市2000s」では果実のフル―ティーさをビターの風味でウイスキー全体を引き締める仕上がりとなっています。
■政孝を語る時に欠かせない重要人物
ニッカウヰスキーの創業者・竹鶴政孝が若い頃、スコットランドでウイスキー造りを学んだことはよく知られています。
「日本で本格的なウイスキーを造りたい、そのためには人生の全てを賭ける」という情熱と信念のもと、政孝は修業に励んでいました。
そんな政孝のウイスキーに注がれる愛情の深さと、技術の習得に打ち込む姿勢に魅せられた、一人の女性がいたことをご存知でしょうか。
その女性の名前は「ジェシー・ロバータ・カウン」といい、「リタ」の愛称で呼ばれていました。
1896年(明治29年)12月14日、イギリススコットランド南西部のグラスゴー郊外にある、イースト・ダンバートンシャー カーキンティロック地域で、医師サミュエル・カウンの長女として誕生しました。
リタには二人の妹と一人の弟がおり、次女のイザベラ・リリアン・カウンは「エラ」の愛称で愛され、三女のルーシー、弟のラムゼイそして母親と共に、町でも最も豪華な建物と言われる屋敷で裕福な暮らしをしていました。
しかし、リタは幼いころから偏頭痛に悩んでおり、15歳になる頃には学校に通うことができなくなり、個人教授を受けて勉学に励んだのです。
そんなリタでしたが、18歳になる頃には健康を取り戻し、グラスゴー学院に入学してからは音楽や英仏文学を学びました。
グラスゴー学院を卒業後は自動車免許を取得し、医師である父の往診を手伝う毎日でした。
そんな日々を送っていた1919年(大正8年)、リタは政孝と運命的な出会いを果たすことになるのです。
■反対を押し切って果たした国際結婚
1918年(大正7年)、政孝は有機化学と応用化学を学ぶため、スコットランドのグラスゴー大学に留学していました。
リタはその翌年の1919年(大正8年)に、結婚を約束していた婚約者を第1次世界大戦で亡くしてしまいます。
失意の日々を過ごすリタの元に、ある日当時グラスゴー大学の医学部に通っていた妹のエラが、弟ラムゼイに柔道の指南をしてくれる人物としてカウン家に連れてきたのが政孝だったのです。
リタと政孝には音楽好きという共通点があり、リタがピアノを弾き、政孝は日本から持参した鼓を仲良く演奏する姿がよくみられました。
そしてお互いの親睦が深まり、いつしか二人の間には愛情が芽生えていったのです。
政孝はリタにプロポーズした時、「スコットランドに残っても構わない」とさえ言ったと言います。
日本人に合うウイスキー造りにあれほど情熱をかけていた彼の言葉は、リタにとってこれ以上ない嬉しいプロポーズの言葉だったことでしょう。
しかし、リタは「私はあなたの夢を共に追い、お手伝いをしたいのです」と答え、政孝の夢を実現するため故郷スコットランドを離れることを決意をしました。
ところが当時は国際結婚に大きな抵抗感があった時代で、当然のようにカウン家・竹鶴家の双方から二人は結婚を反対されました。
そのため、1920年(大正9年)の1月、に二人は登記所で書類を提出するだけの略式結婚を選び、同じ年の11月に政孝は青い目を持つ英国人女性を妻として連れて、日本に帰国したのです。
「マサタカサン」と呼びづらかったリタは、政孝を「マッサン」と親しみを込めて呼んでいたと伝えられています。
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