menu list買取商品 - ニッカ ピュアモルト レッド
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ニッカ ピュアモルト レッドの高価買取致します
ニッカ ピュアモルト レッドのご紹介
買取参考価格 | 2100円前後
生産国 | 日本 |
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生産者名 | 宮城峡蒸溜所 |
地方 | 宮城県 |
地区 | 仙台市青葉区 |
分類 | ピュアモルト |
タイプ | 500ml/43度 |
1980年代に流通した「ニッカ ピュアモルト」シリーズの一つです。
「ニッカ ピュアモルト ブラック」と同時期の1984年に発売された、宮城峡蒸溜所のローランド風味のモルト原酒をベースに造られたピュアモルトウィスキーです。
華やかでフルティーな香りとモルティーでしっかりとしたアロマの香りが漂います。
フレーバーで粉っぽい舌触り、徐々にかりん飴やハチミツを思わせる甘味が感じられます。
ニッカ ピュアモルト レッドの歴史
女性的な優しい味わいが魅力のピュアモルトウイスキー
■甘みと香りのハーモニーが息づくピュアモルト
「NIKKA(ニッカ) ピュアモルト レッド」はニッカ ピュアモルトシリーズの中の一つで、1980年代に流通した商品です。
このシリーズにはほかに北海道余市蒸溜所のモルト原酒を使用したブラックとホワイトがあり、レッドを加えた合計3種類が揃っています。
北海道余市蒸溜所のモルト原酒をベースにしたブラックとホワイトの味わいが重厚であるのに対し、仙台宮城峡蒸溜所のモルト原酒をベースとしているレッドは女性的な優しさとまろやかな味わいを楽しめるのが特徴です。
果実感たっぷりのフルーティーな香りに、モルトの香りもしっかりと漂うアロマが魅力となっています。
バニラの甘い香りも加わって、ソフトな飲み口と喉越しのなめらかさな味わいが堪能できるピュアモルトウイスキーです。
NIKKA(ニッカ) ピュアモルト レッド独特の粉っぽい舌触りが感じられますが、次第にかりん飴や蜂蜜のような甘みを醸し出す味わいへと変化します。
これまでウイスキーを飲んだことがないという人や、女性にもおすすめできる一本に仕上がっています。
■政孝が手掛けたワインに隠された秘密
ニッカウヰスキーの創業者である竹鶴政孝は、たいへん優秀な洋酒製造技術者でもありました。
政孝が酒造りの第一歩を踏み出したのは1916年3月のことで、大阪高等工業学校の卒業を間近に控えた学生でした。
もともと広島の実家が酒造りを営んでいる酒造会社だったこともあり、政孝は大阪高等工業学校の先輩・岩井喜一郎氏を頼って摂津酒造に入社します。
その当時の摂津酒造は洋酒業界の雄であり、岩井氏は常務を務めていました。
卒業を控えていたころにはすでに洋酒に対して興味を抱いていた政孝は、入社後には念願叶って洋酒製造部門へと配属されます。
政孝は洋酒づくりの処方書としてロンドンの出版社が刊行していた書物を持ち歩き、試験室にこもっては長時間研究に打ち込みました。
かと思えば現場に張り付いて、何日も洋酒づくりの一部始終を見続けたといわれています。
その熱意と研究に打ち込む姿勢が買われて、政孝は入社して間もないうちに主任技師に抜擢されたのでした。
政孝が主任技師に任命された年の夏、摂津酒造の店先で相次いで葡萄酒の瓶が破裂するという事態が発生します。
破裂の理由は十分なアルコール殺菌ができていなかったためで、暑さによって酵母が発生し増殖してしまったのが原因でした。
ところが政孝が手掛けた赤玉ポートワインだけは、ただの一本も割れることはなかったのです。
不思議に思った職人たちが尋ねてみると、政孝は徹底した殺菌を行っていたために酵母の発生と増殖をしなかったことがわかりました。
このことをきっかけに、政孝の酒造職人としての評判は広く世間に知られるようになったのです。
■アルコール製造技術者であったことが幸い
1916年の3月に摂津酒造に入社した政孝でしたが、その年の12月には徴兵検査が待ち受けていました。
幼いころより柔道をたしなんでいた彼は体力に自信を持っており、甲種合格は間違いないと思われました。
しかし担当した検察官は、政孝がアルコール製造の技術を有することに注目します。
アルコール製造は火薬を製造する際に欠かせない技術です。
徴兵して軍隊で兵役につかせるよりも、このままアルコール製造に従事させた方が軍需産業の活性化につなげられると判断し、政孝を乙種合格として軍隊には入隊させませんでした。
入隊を免れた政孝は12月で終わる予定だった摂津酒造での勤務期間を、さらに1年間延ばしてもらうよう社長の阿部喜兵衛氏に申し出、阿部氏は勤務延長を喜んで快諾します。
これがスコットランドへの単身留学に続く道であることを、まだそのときの政孝は知る由もありませんでした。
1918年、政孝は社長の阿部喜兵衛氏と先輩である常務の岩井喜一郎氏の命を受け、いよいよスコットランドへと旅立ちます。
グラスゴー大学に籍を置いた政孝は、有機化学と応用化学を学ぶ日々を送るのでした。
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