menu list買取商品 - マルス 駒ヶ岳 1988 シングルモルト 29年 信濃屋 10周年記念
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マルス 駒ヶ岳 1988 シングルモルト 29年 信濃屋 10周年記念の高価買取致します
マルス 駒ヶ岳 1988 シングルモルト 29年 信濃屋 10周年記念のご紹介
買取参考価格 | 150000円前後
生産国 | 日本 |
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生産者名 | 本坊酒造 マルス信州蒸溜所 |
地方 | 長野県 |
地区 | 上伊那郡宮田村 |
分類 | シングルモルトウイスキー |
タイプ | 700ml/60度 |
信濃屋10周年記念のプライベートボトリングシリーズ第7弾としてリリースされた1988年蒸留の「駒ヶ岳 シングルモルト」29年熟成原酒です。
定価88,000円と決して安い価格ではないにもかかわらず、ネットでたった1時間で即完売したこちらのウイスキーは、大手ネットオークションでもプレミアが付き高額取引されています。
アメリカンオークで組まれスコッチウィスキーの熟成に用いられたカスクで眠った厳選された限りある貴重な原酒は、樽熟成由来のオーキーでフルーティーなフレイバーがはっきり表現されており、熟成とピートによる複雑な香りを感じさせてくれます。
ウィスキー不遇の時代を乗り越え、駒ヶ岳の山々に29年の間育まれ続けた極上の1本です。
マルス 駒ヶ岳 1988 シングルモルト 29年 信濃屋 10周年記念の歴史
ネット販売で即完したプレミアムなシングルモルトウイスキー
■ウィスキーファンでも入手が困難な人気銘柄
「マルス 駒ヶ岳 1988 シングルモルト 29年 信濃屋 10周年記念」は1988年にマルス信州蒸溜所で蒸溜された、本坊酒造株式会社が贈る「駒ヶ岳 シングルモルト」の29年熟成原酒です。
信濃屋10周年記念のプライベートボトリングシリーズのうちの1本で、第7弾としてリリースされました。
販売定価価格は88,000円とウィスキーの中でも高級品でしたが、インターネット発売後たったの1時間で即完売するほどの人気ぶりでした。
そのため手に入れることが大変難しく、大手ネットオークションサイトでは高額のプレミア価格で取り引きされています。
アメリカンオークで作られたアメリカンホワイトオークカスクを使用し、ウィスキーの熟成には限りある貴重なモルト(原酒)が用いられているのが特徴です。
ホワイトオーク樽が生み出すオークの香りと果実感あふれるフルーティーな味わいは、一口含むだけで言葉を失うほどの深くて長い余韻を楽しませてくれます。
長期間熟成が醸し出した風味とピートの香りが効いた「マルス 駒ヶ岳 1988 シングルモルト 29年 信濃屋 10周年記念」は、まさに極上と呼ぶに相応しい逸品です。
■本坊酒造と切っても切れない人物
1872年(明治5年)に創業したマルス信州蒸溜所を所有する本坊酒造株式会社は、「地域文化の継承と確信」を経営理念とする酒造会社です。
鹿児島県鹿児島市で事業を開始して以来、焼酎だけに留まらずワインとウィスキーの蒸溜も行っており、山梨県にワイナリーと長野県にマルス信州蒸溜所を構えています。
本坊酒造株式会社のブランドである「マルスウィスキー」は同社が誇る自慢のウィスキーで、製造に携わった岩井喜一郎は後の本坊酒造会長となる本坊蔵吉が大阪帝国大学在学中に師事した人物です。
1934年(昭和9年)に大阪帝国大学工学部の講師に就任していた喜一郎は酒精を担当し、その講義は「名講義」として高い評判を得ていました。
本坊蔵吉が喜一郎に師事したのは1935年(昭和10年)のことで、ウィスキー蒸溜について研究し「蒸溜機」をテーマにした卒業論文を仕上げています。
喜一郎は妻・いをとの間に1男1女の子どもに恵まれ、娘は後に本坊蔵吉と結婚して蔵吉は喜一郎の娘婿となりました。
■マルスウィスキー誕生に尽力した岩井喜一郎の生い立ち
1883年(明治16年)に京都市中京区河原町で岩井家の長男として生まれた岩井喜一郎は、喜右衛門とはなを父と母に持ち、きょうだいは弟の種一と妹のみちがいました。
1902年(明治35年)に大阪高等工業学校醸造学科を第1期生として卒業した喜一郎は、1903年(明治36年)に陸軍技手として宇治火薬製造廠酒精工場長を命ぜられることになります。
工場長となった喜一郎は麹の糖化による日本式アルコール製造法の基礎を確立することに成功し、1909年(明治42年)に合資会社摂津酒精醸造所(後の摂津酒造)に入社します。
1920年(大正9年)に摂津酒造の常務取締役兼技師長に就任し業務に励む傍ら、1934年(昭和9年)には大阪帝国大学工学部講師として教鞭も執りました。
1937年(昭和12年)に摂津酒造の常務取締役を辞任していた喜一郎は、1961年(昭和36年)には「名講義」との評判が高かった大阪帝国大学工学部での講師も辞任しています。
岩井喜一郎が本坊酒造顧問に就任したのは1945年(昭和20年)のことで、これによって本坊酒造のウィスキー造りは本格化していきます。
■ジャパニーズ・ウィスキーを造り上げた2人
岩井喜一郎は摂津酒造で竹鶴政孝(ニッカウヰスキー創業者)の上司であったことでも有名ですが、もともと2人は大阪高等工業学校醸造学科の先輩後輩の仲でした。
摂津酒造が純国産ウィスキーを造るにあたり、スコッチ・ウィスキーの本場・スコットランドで修業をするなら政孝以外の適任者はいないと見込んだのは喜一郎です。
喜一郎の予想通り、政孝はスコットランドのロングモーン蒸溜所やヘーゼルバーン蒸溜所で修業を重ねました。
そして帰国後、ポットスチルの構造やウィスキー蒸溜工程を事細かに書き込んだ「竹鶴ノート」を喜一郎に提出します。
ジャパニーズ・ウィスキーが誕生する礎を作り上げたのは、政孝をスコットランドに送った喜一郎と、その期待に応えた政孝の2人であるといっても過言ではありません。
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