menu list買取商品 - マルス モルテージ 越百(コスモ) モルトセレクション
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マルス モルテージ 越百(コスモ) モルトセレクションの高価買取致します
マルス モルテージ 越百(コスモ) モルトセレクションのご紹介
買取参考価格 | 1000円前後
生産国 | 日本 |
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生産者名 | 本坊酒造 マルス信州蒸溜所 |
地方 | 長野県 |
地区 | 上伊那郡宮田村 |
分類 | モルト/グレーン |
タイプ | 700ml/43度 |
「マルス モルテージ 越百(コスモ) モルトセレクション」は、マルスウイスキー独自のブレンド技術により、複数のタイプが異なるモルト原酒をヴァッティングすることで、複雑さと奥行きを表現したブレンデッドモルトウイスキーです。
ハチミツやキャラメルを連想させる芳醇な甘い香りに、ほのかなスモーキーフレーバーと熟した果実の香りが広がり、丸く柔らかな口当たりで後に残る優しい余韻が特徴です。
「越百(コスモ)」という商品名は、中央アルプスに連なる山の一つである「越百山」から名付けられました。
宇宙を連想させるコスモ(COSMO)という呼び名でもあることから、ラベルは中央アルプス山麓に位置するマルス信州蒸溜所から見上げた夜空をイメージしたデザインとなっています。
マルス モルテージ 越百(コスモ) モルトセレクションの歴史
ラベルに描かれた夜空はマルス信州蒸留所から見上げたものをイメージしています
■ヴァッティングによって生まれる深い味わいが楽しめる逸品
「マルス モルテージ 越百(コスモ) モルトセレクション」はタイプが異なる複数のモルト原酒をヴァッティングし、マルス信州蒸溜所のブレンダーが独自のブレンド技術を駆使して造り上げたブレンデッドモルトウイスキーです。
ハチミツやカラメルを思わせる芳醇でコクのある甘い香りと、ピート由来のウィスキーらしいピーティーさが香り立つ仕上がりとなっています。
スコッチ・ウィスキー独特のスモーキーなフレーバーがほんのりと口の中に広がり、それと同時に熟した果実の香りも広がって、優しい余韻と後味が長く続くところが特徴です。
商品名になっている「マルス モルテージ 越百(コスモ) モルトセレクション」の「越百(コスモ)」とは、中央アルプスに連なる山の一つである「越百山」から取ってその名がつけられました。
またコスモ(COSMO)が宇宙を連想させるということもあり、ラベルデザインは中央アルプスの駒ヶ岳山麓に位置するマルス信州蒸溜所から見上げた夜空をイメージしています。
■マルス信州蒸溜所が生まれるまでの道のり
上質のウィスキーを造るためには、ウィスキー造りに最適な環境が整っていることが非常に大切です。
本坊酒造が本格的にウィスキー造りを始めるにあたり、蒸溜所の建設場所を見つけるまでには長い歳月が掛かりました。
本坊酒造が鹿児島でウィスキー製造免許を取得したのは1949年(昭和24年)のことで、それ以来「いつか日本の風土を活かした本物のウィスキーを造りたい」をいう夢を叶えるべくウィスキー造りに打ち込んできました。
鹿児島でウィスキー造りを開始してから数年後の1960年(昭和35年)に、本坊酒造は山梨にてワインとウィスキー造りのための工場を建設します。
これが「山梨ワイナリー」で、工場の建設に携わったのは竹鶴政孝(ニッカウヰスキー創業者)をスコットランドに派遣した岩井喜一郎でした。
完成した山梨ワイナリーでは岩井喜一郎が手掛けた本坊酒造の有名ブランドとなる「マルスウィスキー」が誕生しますが、本坊酒造はさらなるウィスキー造りのための理想郷を探し求めます。
そして辿り着いたのが長野県の中央アルプス駒ヶ岳山麓に位置する標高798mの上伊那郡宮田村で、ウィスキー造りにはまさにうってつけの場所だったのです。
1985年(昭和60年)に長野に建設されたマルス信州蒸溜所が稼働したのは、本坊酒造が鹿児島でウィスキー製造免許を取得してから実に36年の歳月が過ぎていました。
■本坊酒造のウィスキー造りの規範となった2人
本坊酒造が夢見た「いつか日本の風土を活かした本物のウィスキーを造りたい」という想いを、1918年(大正7年)にすでに実行に移していた人物がいました。
後に本坊酒造顧問となりマルスウィスキー誕生に尽力した岩井喜一郎と、「日本のウィスキーの父」と称されたニッカウヰスキーの創業者・竹鶴政孝です。
当時日本国内には粗悪な国産ウィスキーしかなく、いずれウィスキーブームが到来することを予見した摂津酒造の阿部喜兵衛社長と岩井喜一郎常務は、純国産ウィスキーの本格的な製造に乗り出します。
しかし知識も技術も乏しかったことから、本場スコットランドでスコッチ・ウィスキーの蒸溜技術を学ぶ人材を派遣する必要がありました。
広島・竹鶴酒造会社の3男として生まれ、洋酒に興味を持っていた摂津酒造の製造技師・竹鶴政孝は、1918年(大正7年)スコットランドでの修業へと旅立ちます。
政孝は1920年(大正9年)に帰国し、ウィスキー蒸溜機(ポットスチル)などについて詳細に記録した「実習報告書」を上司の岩井喜一郎に提出します。
大学ノート2冊にまとめ上げられたこのノートは「竹鶴ノート」と呼ばれ、本坊酒造の山梨工場建設時のもとにもなりました。
ウィスキーの本場・スコットランドで修行を終えた竹鶴政孝は、「いつか日本で日本人の口に合う本物のウィスキーを造りたい」と考えます。
政孝が夢見たことと本坊酒造が目指したものが同じであったことに、深い感銘を抱かずにはいられません。
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