menu list買取商品 - ニッカ ピュアモルト シェリー樽
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ニッカ ピュアモルト シェリー樽の高価買取致します
ニッカ ピュアモルト シェリー樽のご紹介
買取参考価格 | 9700円前後
生産国 | 日本 |
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生産者名 | ニッカウヰスキー株式会社 |
地方 | 東京都 |
地区 | 港区 |
分類 | ピュアモルト |
タイプ | 500ml/40度 |
ウィスキーを熟成する際に、シャリー樽に貯蔵して造られたピュアモルトウィスキーです。
ウィスキーの始まりは、シャリー樽に蒸留酒を隠したことから始まったと言われている伝統的な製法です。
その伝統的製法で造ることで、滑らかな口当たりとまろやかな味わいに仕上がっています。
また、ピュアモルトウィスキーは、モルト原酒100%のウィスキーのことを指しています。
ニッカ ピュアモルト シェリー樽の歴史
ウイスキーのおいしさを提案したいとのコンセプトから生まれたピュアモルト
■今では手に入れることが難しい人気のウイスキー
1991年7月に販売された「NIKKA(ニッカ) ピュアモルト シェリー樽」は、1998年1月に販売終了となった人気のピュアモルトウイスキーです。
販売当時の希望小売価格は500ml入りで2,500円でしたが、今では入手するのが非常に困難になったため、オークションで10倍近い値段が付くほどのプレミア品となっています。
名前の通りシェリー樽で熟成させたモルト原酒のみを使用し、シェリー樽ならではの甘さが感じられる独特な香りが特徴です。
口当たりがやわらかく、舌に感じるまろやかさと喉越しのなめらかさは、まさに極上のピュアモルトウイスキーといっても過言ではありません。
ウイスキーのおいしさを生み出す熟成のカギは、樽が握っているといってもいいでしょう。
樽の中で眠り続けるうちにウイスキーならではの風味となめらかさ、そして香りが生まれてきます。
そのためにはじっくりと時間をかけて熟成させなければならず、急いでしまうと熟成が未熟なままのウイスキーしか出来上がりません。
NIKKA(ニッカ) ピュアモルト シェリー樽は熟成が進んだシェリー樽由来の甘い香りと、ピュアモルトのおいしさをぎゅっと濃縮した一本となっています。
アルコール度数は40%ですので、ウイスキー初心者にもおすすめです。
■創業者なのに専務と呼ばれた男
東京都港区に本社を置くニッカウヰスキー株式会社は、ニッカの愛称で親しまれる日本の洋酒メーカーです。
創業は1934年(昭和9年)7月2日で、主にリンゴジュースなどのリンゴを使った加工品を扱う「大日本果汁株式会社」が前身でした。
大日本果汁株式会社を設立した創業者の竹鶴政孝は、将来ウイスキーづくりを行うのに最適な場所として北海道余市郡余市町を選びました。
余市はウイスキーの本場・スコットランドに気候環境がたいへんよく似ています。
本物のウイスキーを造るにはウイスキーづくりに適した環境が整っていなければならないと、政孝は常々考えていました。
余市はそんな政孝の夢を叶えるまさに夢のような土地だったのです。
設立当時の大日本果汁株式会社は、株主が大きな力を持っていました。
中でも筆頭株主であった加賀証券の社長・加賀正太郎氏の力は強く、会社内で加賀氏は御主人様と呼ばれていたほどです。
その一方で創業者であった政孝は専務と呼ばれ、社内での立場の違いが浮き彫りになるエピソードとして伝わっています。
■竹鶴政孝誕生の地・広島
ニッカウヰスキーの創業者・竹鶴政孝は、1894年6月20日に広島県賀茂郡竹原町(現在の竹原市)で生を受けました。
政孝の実家の裏には竹林があり、その竹林の中で鶴が巣を作ったことが竹鶴という名字の由来となっています。
政孝の実家である竹鶴酒造は現在も酒造店を営んでおり、広島県竹原市に本社を置く風情あふれる佇まいが特徴です。
四男五女の三男として生まれた政孝は、幼いころから酒造りをする父親の背中を見て育ちます。
その当時「美味い酒は兵庫の灘」といわれるほど、灘の酒は圧倒的なブランド力を誇っていました。
地元の蔵人たちは灘の酒に負けない酒を造ろうと、三浦仙三郎氏をリーダーに酒造りの改良に打ち込んでいたのです。
政孝の父・敬次郎もその一人で、しかもグループの主要メンバーでもありました。
三浦氏は麹を低温でゆっくり時間をかけて発酵させる吟醸づくりの技術を確立させた人物としても知られており、ついに灘の酒に引けを取らない上質の日本酒造りに成功します。
これによって広島の酒は西条酒と呼ばれ、灘・伏見と並ぶ日本酒の三大銘醸地となったのです。
ところで三男坊であった政孝が実家の酒造会社を継ぐに至った背景には、上の2人の兄が酒造りを敬遠したという事情がありました。
大阪高等工業学校の卒業を間近に控えていた政孝は、この頃にはすでに洋酒に興味を抱いており、先輩を頼って卒業を待たずに摂津酒造に入社することになります。
時に1916年3月の春のことでした。
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