menu list買取商品 - サントリーローヤル スリムボトル
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サントリーローヤル スリムボトルの高価買取致します
サントリーローヤル スリムボトルのご紹介
買取参考価格 | 1700円前後
生産国 | 日本 |
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生産者名 | サントリースピリッツ株式会社 |
分類 | ブレンデッドウイスキー |
タイプ | 660ml/43度 |
サントリーの創業者である鳥井信治郎氏が自らウイスキー造りの過程で培った香り、味、色の「黄金比」を体現化したのが「サントリーローヤル」です。
1960年に「酉」のカタチを模ったボトルで発売されて以降、90年代に入ってから新しく登場したスリムデザインのボトルです。
甘く華やかな香りとやわらかく滑らかな口あたりはまさに、プレミアムクラスのジャパニーズ・ブレンデッド・ウイスキー。
すっきりと心地良く続く余韻を存分にお楽しみいただけます。
サントリーローヤル スリムボトルの歴史
鳥井信治郎渾身の名作に新たに仲間入りしたサントリーローヤルスリムボトル
■不朽の名作にニューフェイスのボトルが登場
「サントリーローヤル スリムボトル」は1960年にサントリーの創業者・鳥井信治郎が自ら手掛けた名作で、ウイスキー造りの過程で培った香りと味と色の「黄金比」を体現化した「サントリーローヤル」のスリムボトルです。
1960年に「酉」の文字をかたどったボトルに、栓は鳥居をかたどったずっしりとした「サントリーローヤル」に対し、「サントリーローヤルスリムボトル」はスレンダーな印象を受けるボトルデザインとなって90年代に登場しました。
鳥井信治郎が体現化したサントリーローヤルに甘くて華やかな香りとやわらかでなめらかな口当たりにスッキリとした心地良い余韻が楽しめる、まさにプレミアムクラスと呼ぶにくなとふさわしいジャパニーズ・ブレンデッド・ウイスキーに仕上がっています。
1960年の誕生以来、高級ウイスキーとして数々の夜を華やかに彩ってきた高級ウイスキーの「サントリーローヤル」の魅力が、「サントリーローヤル スリムボトル」にもしっかりと息づいているのがわかります。
■サントリーの創業者の生い立ち
サントリー(現在のサントリーホールディングス株式会社)の創業者・鳥井信治郎(とりいしんじろう)は、1879年(明治12年)1月30日に現在の大阪府中央区釣鐘町で両替商・米穀商を営んでいた鳥井忠兵衛の次男として誕生しました。
8歳になった1887年(明治20年)に大阪府東区島町の北大江小学校尋常科入学し、1888年(明治21年)には 9歳で4年飛び越えて高等科に編入することになります。
11歳になった1890年(明治23年)、信治郎は大阪市西区江戸堀南通(現在の江戸堀)の市立大阪商業学校付属科(のちに大阪市立天王寺商業高等学校となり、現在は大阪市立大阪ビジネスフロンティア高等学校)に入学しました。
信治郎の入学年度や入学した年齢を考えると、信治郎はかなり学業優秀な子どもであったことがわかります。
1892年(明治25年)、大阪市東区道修町の薬種問屋小西儀助商店(現在の接着剤製造会社のコニシ)へ信治郎は丁稚奉公に出ますが、このとき信治郎はまだ13歳でした。
しかし小西儀助商店は当時数少ない洋酒を扱っていたこともあって、この丁稚奉公時代に信治郎は洋酒についての知識を得たと述懐しています。
■20歳でサントリーの前身となる会社を興す
16歳となった1895年(明治28年)、信治郎は大阪市東区博労町の絵の具・染料を扱っていた小西勘之助商店へ移りました。
信治郎20歳のときに大阪市西区靱中通(現・靱本町)で「鳥井商店」を興したのが1899年(明治32年)のことで、1906年(明治39年)には 「鳥井商店」から「寿屋洋酒店」に屋号を改名します。
信治郎が27歳のときのことでした。
この頃信治郎は大阪でスペイン人兄弟が経営していた「セレース商会」を買収してスペイン産の葡萄酒を販売しましたが、これがさっぱり売れない代物でした。
そこで信治郎は日本人の口に合うブドウ酒造りに着手し、「赤玉ポートワイン」の製造と販売にこぎつけます。
信治郎が42歳になった1921年(大正10年)には、大阪市東区住吉町(現在の松屋町住吉)で「株式会社寿屋」を設立しました。
「株式会社寿屋」は後にサントリーへと社名を変え、大手ウイスキー製造企業の「サントリーホールディングス」へと成長を遂げることになります。
株式会社寿屋が販売する「赤玉ポートワイン」は順調に売り上げを伸ばし、大正後期には日本国内のワイン市場のおよそ60%を占めるまでに成長しました。
■いよいよウイスキーの生産へ
1923年(大正12年)、信治郎は 44歳で本格的なウイスキー生産を志し、ウイスキーの本場スコットランドキャンベルタウンに出向きます。
そこでウイスキー製造技師を派遣してくれるよう依頼しますが、「日本にはすでに優れたウイスキー製造技師がいるだろう」と言われます。
それが「日本のウイスキーの父」と称されたニッカウヰスキーの創業者・竹鶴政孝で、「国産ウイスキーの父」と称された鳥井信治郎との二人三脚が始まることになります。
信治郎は大阪府島本村山崎に山崎蒸溜所を建設し、竹鶴政孝を初代所長として国産ウイスキーの製造を本格的に開始したのでした。
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