menu list買取商品 - ニッカ ブラック50
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ニッカ ブラック50の高価買取致します
ニッカ ブラック50のご紹介
買取参考価格 | 1300円前後
生産国 | 日本 |
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生産者名 | ニッカウヰスキー株式会社 |
分類 | ブレンデッドウィスキー |
タイプ | 720ml/40度 |
1975年3月に発売し、1979年にリニューアルした後に販売を終了した商品です。
1975年の読売新聞ではラベルに表記されている「BLACK-50」ではなく、日本語で「黒の50」と紹介されていました。
この「黒の50」の名前の由来は、発売当時が昭和50年だったからだそうです。
また、黒いボトルはブラックニッカにあやかったものだと言われています。
ほんのりスモーキーな香る、酸味が主体のまろやかな味わいが特徴です。
※1440ml、1920mlは買取価格が異なります。
ニッカ ブラック50の歴史
ニッカと言えば黒!ブラックニッカにあやかった黒の50
■日本語で記されたブラック50
1975年(昭和50年)3月に発売された「NIKKA(ニッカ) ブラック50」は、1979年3月に「ブラック50デラックス」にリニューアルされたあと、1998年(平成10年)に販売を終了したウイスキーです。
発売を知らせる読売新聞ではラベルに記載された「BLACK-50」という呼び方を使わずに、「黒の50」と紹介しました。
この50は発売された年が昭和50年だったことに由来しています。
黒のボトルと言えば、ニッカウヰスキーの代名詞でもある「ブラックニッカ」を思い浮かべる人も多いことでしょう。
実はこのNIKKA(ニッカ) ブラック50に使用された黒いボトルは、何を隠そうブラックニッカにあやかって作られたものです。
発売された当初の希望小売価格は1,000円でしたが、オークションなどでは平均して5倍近い価格がついています。
ブラック50はピートのスモークさがかぐわしく香り、まろやかな味わいに酸味が利いているのが特徴です。
ブラックニッカのアルコール度数が42%あるのに対し、ブラック50のアルコール度数は40%と低めに抑えてあります。
これはブラックニッカを若者にも飲んでもらいたいとの思いからアルコール度数をわざと控えめにしました。
ブラック50は若い人たちにもブラックニッカのおいしさと魅力を知ってもらうため、飲みやすさと価格を手頃にした若者向けのお酒です。
■幼少期からの政孝の素顔とは
ニッカウヰスキーの創業者・竹鶴政孝と言えば、スコットランド留学中にウイスキーづくりを詳細にしたためた「竹鶴ノート」を書いたことでも知られています。
緻密な作業をこと細かに記載し、時にはイラストも交えて描かれた様子から知的な文学青年の風貌を想像させますが、幼少期の政孝はかなりの暴れん坊で、しかも好奇心が人よりも旺盛だったと言われます。
実際政孝は忠海中学(現在の広島県立忠海高等学校)時代に柔道部の主将を務め、武道にも秀でていました。
また寮生活を送っていたときには寮長も務めるなど、幼少よりの活発な姿が健在だった様子が垣間見えます。
中学卒業後、大阪高等工業学校(旧制大阪工業大学、現在の大阪大学工学部)に進学した政孝は、酒造りを営んでいた実家の家業を継ぐため醸造科で学びました。
1916年12月には徴兵検査を控えていましたが、本人は柔道をたしなんでいたこともあって、検査には必ず合格するものと思っていました。
しかしこの頃すでに大阪の摂津酒造で酒造職人として働いていた政孝は、アルコール製造の技術者でもあったのです。
火薬製造に欠かすことのできないアルコール製造技術者は、入隊させて軍事に就くよりそのままアルコール製造に従事させた方が得策との判断から、政孝が徴兵されることはありませんでした。
柔術の腕を活かすことはできませんでしたが、アルコール製造技術のおかげで摂津酒造での洋酒造りを継続することができたのです。
■純国産のウイスキーづくりを夢見て
日本にアメリカからウイスキーが伝わってきたのは19世紀の頃で、その当時の日本ではアメリカの模造品のウイスキーばかりが出回っていました。
欧米で好まれるピート特有のスモーキーなフレーバーも、ウイスキーに馴染みのない日本人にとっては焦げたような臭いがするまずい酒としか映りません。
何しろ日本人の好みに合う純国産のウイスキーを造っている酒造メーカーは一つもなかったのです。
そこで純国産のウイスキーを造るための計画に名乗りをあげたのが、政孝が酒造技師として働いていた摂津酒造でした。
しかしそのためにはウイスキーの本場・スコットランドで、ウイスキーづくりに必要な知識と技術を習得する必要があります。
その人物として白羽の矢が立ったのがあとに「ウイスキーの父」と称された竹鶴政孝で、1918年に単身スコットランドへと渡ります。
帰国後、人生のすべてをウイスキーづくりに情熱を注いだ政孝が、純国産のウイスキーを造る夢を叶えるべく旅立った瞬間でもありました。
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