menu list買取商品 - マルス 駒ヶ岳 1988 シングルカスク シェリー #568
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マルス 駒ヶ岳 1988 シングルカスク シェリー #568の高価買取致します
マルス 駒ヶ岳 1988 シングルカスク シェリー #568のご紹介
買取参考価格 | 68500円前後
生産国 | 日本 |
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生産者名 | 本坊酒造 マルス信州蒸溜所 |
地方 | 長野県 |
地区 | 上伊那郡宮田村 |
分類 | シングルモルトウイスキー |
タイプ | 700ml/46度 |
2014年8月にボトリングされた498本限定リリースの26年熟成のジャパニーズシングルカスクウイスキー「駒ヶ岳 1988 シングルカスク」です。
熟成モルトウイスキーの中から一樽だけを厳選して瓶詰めしたシングルカスクウイスキーは、蒸留年、樽、貯蔵位置ごとに特徴があり、瓶詰めされる数量も制限があるため大変稀少な逸品となります。
シェリー樽由来の香味が芳醇で、カラメルを思わせるような香りに長期熟成ならではのボリュームがあり、深みと厚みのある味わいが特徴的なウイスキーです。
マルス 駒ヶ岳 1988 シングルカスク シェリー #568の歴史
熟成モルトウイスキーの中から厳選して生まれた味わい深さが魅力の逸品
■ボトリング数が少ない希少なシングルカスクウィスキー
「マルス 駒ヶ岳 1988 シングルカスク シェリー #568」は2014年8月に498本限定でリリースされた、26年熟成のシングルカスクをボトリングしたウィスキーです。
シングルカスクウィスキーとは「シングル=一つ」の「カスク=樽」で熟成させたモルトウィスキーのことで、「マルス 駒ヶ岳 1988シングルカスク シェリー #568」は数あるモルトウィスキーの中から1樽だけを厳選して瓶詰めしました。
498本限定になったのはカスクの容量に限りがあるためで、今後同じモルトウィスキーができないことから大変希少価値の高い銘柄です。
シェリーカスクで熟成が進んだことによってシェリー由来の芳醇な香りと味わいが生まれ、同時にカラメルを思わせる甘くて香ばしい香りが絶妙に調和しています。
熟れたプラムが濃縮された果実香とシェリーカスクを作った木の香りが華やかに香り、長期熟成ならではの奥深さと重厚感が感じられる仕上がりです。
■岩井喜一郎につながる人物
大阪高等工業学校(現在の大阪大学工学部)醸造学科の1期生だった岩井喜一郎(いわいきいちろう)は、同じく大阪高等工業学校の15期生だった竹鶴政孝(たけつるまさたか)の先輩にあたります。
竹鶴政孝はニッカウヰスキーの創業者で、後に「日本のウィスキーの父」と称された人物です。
岩井喜一郎と本坊酒造とのつながりは1935年(昭和10年)に始まり、前年の1934年(昭和9年)から喜一郎は大阪帝国大学工学部の講師にも就任していました。
当時大阪帝国大学に在学していたのちに本坊酒造の会長となる本坊蔵吉は、喜一郎に師事すると共にウィスキー蒸溜の研究も行うことになります。
卒業後は喜一郎の娘と結婚し、2人のつながりはより一層強いものとなりました。
喜一郎が摂津酒造を退社した後、1945年(昭和20年)に本坊酒造の顧問として就任した以前にはすでに深い絆が結ばれていたのです。
本坊酒造でウィスキー造りを任された喜一郎は、大手ウィスキーメーカーに負けない味わいの「地ウィスキー」を造り上げます。
このウィスキーこそが「マルスウィスキー」で、マルスウィスキー誕生にあたっては竹鶴政孝がスコットランドで修行し、喜一郎に実習報告書として提出していた「竹鶴ノート」がもととなったことはあまりにも有名です。
岩井喜一郎につながる人物は誰もがジャパニーズ・ウィスキー造りに並々ならぬ熱意を注ぎ、ジャパニーズ・ウィスキーの発展に寄与してきたといっても過言ではありません。
■竹鶴政孝の成功を支えた功績
「日本のウィスキーの父」としてジャパニーズ・ウィスキーの礎を築いたニッカウヰスキーの創業者・竹鶴政孝は、1916年(大正3月)大阪高等工業学校醸造学科卒業を間近に控えていました。
そこで先輩の岩井喜一郎を頼って摂津酒造を訪ねます。
卒業を待たずに入社した政孝は当時では珍しかった洋酒の製造部門に希望通り配属され、試験室にこもって研究しました。
かと思えば洋酒製造の現場に張り付いて研究に励むなど、その熱心な姿勢が評価されて摂津酒造入社後間もなく主任技師に抜擢されます。
当時の日本ではアメリカからの模造ウィスキーが横行しており、純国産ウィスキーを造っているところはどこもありませんでした。
そこで摂津酒造は本格的な純国産ウィスキー製造に乗り出し、ウィスキー造りの技術や手法を本場・スコットランドで学ぶことにします。
その修業に向かう人物として白羽の矢が立ったのが竹鶴政孝で、1918年(大正7年)社長の阿部喜兵衛と専務の岩井喜一郎に見送られ神戸港から旅立ちました。
1920年(大正9年)に帰国するまでの2年間、政孝はスコットランドのグラスゴー大学醸造科にて有機化学と応用化学を学びます。
しかしグラスゴー大学には実習できる設備がなかったため、政孝は近隣の蒸溜所に修業させてくれるよう直談判して頼み歩きました。
異国からやってきた素性の知れない日本人を受け入れてくれる蒸溜所を見つけるのは至難の業でしたが、それでもロングモーン蒸溜所とヘーゼルバーン蒸溜所の2か所が受け入れてくれたのです。
かの有名な「竹鶴ノート」は、ヘーゼルバーン蒸溜所での修業によって誕生したといわれています。
後に政孝がニッカウヰスキーでウィスキー造りに成功した背景には、岩井喜一郎の功績があったことは否めません。
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