menu list買取商品 - マルス ザ・モルト・オブ・カゴシマ 1984 25年 シェリーカスク
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マルス ザ・モルト・オブ・カゴシマ 1984 25年 シェリーカスクの高価買取致します
マルス ザ・モルト・オブ・カゴシマ 1984 25年 シェリーカスクのご紹介
買取参考価格 | 50000円前後
生産国 | 日本 |
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生産者名 | 本坊酒造 マルス信州蒸溜所 |
地方 | 長野県 |
地区 | 上伊那郡宮田村 |
分類 | シングルモルトウイスキー |
タイプ | 720ml/46度 |
マルス「ザ・モルト・オブ・カゴシマ 1984 25年 シェリーカスク」は、日本におけるウイスキー造りの最南端・鹿児島で蒸留された最後のヴィンテージ・シングルモルト・ウイスキーです。
本坊酒造のウイスキー製造拠点がマルス信州蒸溜所に移された1984年に鹿児島の地で蒸留し、25年間シェリー樽にて貯蔵熟成されていたモルト原酒5樽がヴァッティングされました。
雄大な桜島を連想させるかのような重厚な味わいに、錦江湾の磯の香りを感じさせるピート香が調和した逸品に仕上がっております。
鹿児島の地で蒸留された最後のジャパニーズウイスキーとして限定3018本のみリリースされた逸品を存分にお愉しみいただけます。
マルス ザ・モルト・オブ・カゴシマ 1984 25年 シェリーカスクの歴史
鹿児島で蒸留する本坊酒造最後となった限定ウイスキー
■火の島・鹿児島から最後に届けられた秀逸品
「マルス ザ・モルト・オブ・カゴシマ 1984 25年 シェリーカスク」は日本最南端の鹿児島津貫にある本坊酒造の津貫蒸溜所にて、最後に蒸溜されたヴィンテージ・シングルモルト・ウィスキーです。
1984年((昭和59年)に「マルス ザ・モルト・オブ・カゴシマ 1984 25年 シェリーカスク」の原酒を鹿児島で蒸溜した後、本坊酒造はウィスキーの製造拠点をマルス信州蒸溜所へと移します。
「マルス ザ・モルト・オブ・カゴシマ 1984 25年 シェリーカスク」は25年もの歳月を掛けてシェリーカスクで貯蔵・熟成を行い、そのモルト原酒の中から5樽を厳選してブレンダーがヴァッティングさせて完成した鹿児島最後の銘柄となりました。
鹿児島のシンボルである雄大な桜島を連想させる重厚感あふれる味わいと、錦江湾から吹き込む磯の香りとピートの香りが楽しめる逸品に仕上がっています。
鹿児島で本坊酒造が蒸溜した最後のジャパニーズ・ウィスキーは、本数3,018本の限定リリース品のため完売する前にぜひ味わっておきたい銘酒です。
■マルスウィスキーの品質が高い理由
本坊酒造は過去にワールド・ウィスキー・アワードにて世界最高賞を受賞した経歴があり、ジャパニーズ・ウィスキーの一翼を担う存在として注目を集めました。
本坊酒造が大手ウィスキーメーカーの造るウィスキーに引けを取らないほどの高い品質を誇っている理由の一つに、マルスウィスキーの功労者である岩井喜一郎氏の存在があります。
岩井氏は本坊酒造の山梨工場設立とマルスウィスキー誕生に尽力した人物で、工場並びにマルスウィスキーはニッカウヰスキーの創業者・竹鶴政孝氏が残した「竹鶴ノート」をもとに誕生したといっても過言ではありません。
マルスウィスキーはスコッチ・ウィスキーをそのまま体現したかのような「ヘビーでスモーキーなウィスキー」で、スコットランドでウィスキー造りを学んだまさに竹鶴製法そのものでした。
あくまでもスコッチ・ウィスキーにこだわりを持っていた竹鶴氏は、スコッチ・ウィスキーを基礎としたジャパニーズ・ウィスキー造りを目指します。
マルスウィスキーの品質が高いのは、岩井氏と竹鶴氏という2人の卓越したウィスキー製造技師が持つ、確かな技術と豊富な知識に裏打ちされていることだけは疑いようのない事実です。
■「日本のウィスキーの父」を囲む人々
ウィスキー造りに生涯を捧げたニッカウヰスキーの創業者・竹鶴政孝の周りには、ウィスキー造りに理解を示してくれる人々が大勢いました。
広島の酒造会社・竹鶴酒造の3男とした生まれた政孝は、幼いころから酒造りに励む父親の背中を見て育ちました。
大学卒業を待たずに入社した摂津酒造では、社長の阿部喜兵衛と大学の先輩であり上司となった常務の岩井喜一郎からスコットランド留学を言い渡されます。
そこで知り合ったのがジェシー・ロバータ・カウン(通称リタ)で、彼女は政孝の一生の伴侶となりました。
ウィスキー造りを行うことが難しかった日本で、スコッチ・ウィスキーと身近に接して育ってきたリタは政孝にとって良き理解者であったに違いありません。
1924年(大正13年)、妊娠していたリタは不幸にも流産し、その後政孝とリタ夫妻は子どもに恵まれませんでした。
そのため1943年(昭和18年)には甥である威(たけし・旧制宮野)を養子に迎え、竹鶴威氏はニッカウヰスキーの2代目ブレンドマスターに成長していきます。
政孝の義理の孫にあたる威氏の息子・孝太郎氏もブランディングコンサルタントを務めており、リタが亡くなったときの政孝の悲壮なまでの悲嘆ぶりを述懐していたのは孫の孝太郎氏でした。
その他にもジャパニーズ・ウィスキーの発展と創生に寄与したサントリーの鳥井信治郎は、政孝とリタが結婚した当初から何かと面倒を見てきました。
政孝を年棒4,000円で摂津酒造からサントリーに引き抜き、山崎蒸溜所の初代所長に任命したのも誰あろう鳥井信治郎です。
政孝はまさにウィスキー造りに生涯を捧げるため、力となってくれる理解者たちに囲まれていた人生であったといってもいいでしょう。
ちなみに本坊酒造の会長・本坊蔵吉は大学時代に岩井喜一郎に師事し、後には岩井の娘との結婚も果たします。
蔵吉にとって岩井と竹鶴は、ウィスキー造りの師であり人生の師でもあります。
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