menu list買取商品 - 宮城峡 1990 宮城峡蒸留所 20年貯蔵 ニッカ
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宮城峡 1990 宮城峡蒸留所 20年貯蔵 ニッカの高価買取致します
宮城峡 1990 宮城峡蒸留所 20年貯蔵 ニッカのご紹介
買取参考価格 | 70000円前後
生産国 | 日本 |
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生産者名 | 宮城峡蒸留所 |
地方 | 宮城県 |
地区 | 仙台市青葉区 |
分類 | シングルモルト |
タイプ | 700ml/48度 |
2011年11月に1000本限定で販売されたのがこちらの「シングルモルト宮城峡 1990」です。
ニッカウヰスキー宮城峡蒸溜所で満20年の貯蔵を経たモルトウイスキーのみをバッティングしたヴィンテージモルトウイスキーで、冷却ろ過をせずにびん詰めを行うノンチルフィルタード製法で香味成分が豊富に残り、より豊かな香りと複雑な味わいが楽しむことができます。
華やかで優雅な味わいを実現してくれるアルコール度数48度で瓶詰めされた柔らかく軽やかなフルーティ香です。
宮城峡 1990 宮城峡蒸留所 20年貯蔵 ニッカの歴史
1000本限定の価値あるヴィンテージウイスキー
■20年の歳月が生み出した美味しさは宮城峡ならでは
「シングルモルト宮城峡1990」は、1000本限定で2011年に販売された、ヴィンテージモルトウイスキーです。
ニッカウヰスキーの宮城峡蒸溜所にて、20年にわたる貯蔵期間を経たモルトウイスキーだけが使用されています。
やや赤みがかった琥珀色のウイスキーは、樽熟成による香りが漂い、レーズンが持つドライフルーツの香りや熟れたカシスなどの果実の風味も楽しめます。
森に囲まれた宮城峡蒸留所ならではの、青葉を思わせる爽やかで繊細な香りも特徴です。
20年の長期樽熟成により、濃厚な甘さが幾重にも重なりながらも、口当たりは非常に清らかで、余市峡とは異なる宮城峡原酒でしか実現しない味わいが楽しめるウイスキーとなっています。
■政孝を支え続けたリタとの結婚生活
ニッカウヰスキーの創業者である竹鶴政孝が、日本国内に二つ目のウイスキー蒸留所として建てたのが、宮城峡蒸留所です。
一つ目の余市蒸留所建設から30年後のことで、その間も、彼の傍らに寄り添い常に支えていたのが妻の竹鶴リタでした。
リタ(本名ロベルタ ジェシー・カウン)は、ウイスキーの製造方法を学ぶため、当時働いていた摂津酒造からスコットランドに派遣されていた政孝と出会いました。
グラスゴー大学に籍を置いていた政孝は、同じくグラスゴー大学の医学部で学んでいたリタの妹が、弟に柔道を教えてくれる人物を探していた時に、その妹に白羽の矢を立てられたのでした。
こうして、カウン家を訪れるようになった政孝は、共通の趣味を持つリタと次第に親交を深めるようになりました。
そして、ウイスキーの手法をすっかり学び切ったころには、二人は強い愛情で結ばれていたのです。
政孝は、「リタが望むなら帰国を断念して、スコットランドに残って仕事を探す」と言って彼女に求婚しましたが、リタの方が「日本で本物のウイスキーを造るために私たちは日本に行くべきです。
そして、私にも手伝わせてください」と答えました。
2人が結婚したのは1920年頃のことです。
政孝の妻となって日本にやってきたリタは、家族を支える役割を楽しみながら果たしていました。
主婦業を完璧にこなすため、トウモロコシをゆでる直前にもぎ取り、たくあんも食べるぎりぎり前まで樽から出さないなど、日本人になりきった外国人と政孝に言わしめたほどでした。
それでも、政孝が留守の時には秘かに洋食を作って楽しんでいたリタですが、それ以外の時には常に夫を立てて尽くす生活を送っていました。
そんなリタに対して政孝も、誕生日には愛のメッセージを添えた本を贈ったと言われています。
当時の日本社会の中でも、典型的な日本男児だった政孝には面はゆい面もあったでしょう。
それとも、スコットランドでの生活を送った彼には、ごく自然なことだったのかもしれません。
■リタを待ち受けた過酷な出来事
第二次世界大戦が始まった頃、リタは自身の周辺に変化が起きていることを感じ始めます。
この大戦により、ニッカウヰスキーは軍事用のウイスキーの生産を任され、需要を伸ばし工場も拡張されて軍需景気に沸きました。
リタは日曜日には小樽や札幌の教会へ礼拝に出かけていましたが、青い目の異国人は特高刑事による監視の対象となっていたのです。
太平洋戦争が進むにつれて、リタへの監視は次第に露骨になり、外国人スパイの容疑をかけられ、自宅の前は常に刑事に見張られていました。
後日、リタは「戦争中は髪も目も黒くして鼻も低くしたい」と願っていたと明かしています。
1945年(昭和20)年8月15日、ようやく太平洋戦争が終わりを告げました。
軍事用の注文がなくなったニッカウヰスキーは苦境に立たされましたが、リタは男たちが働いている限り、ニッカウヰスキーが途絶えることはないと信じていました。
リタは工場内を歩き「そのうち必ずあなたたちは忙しくなる」と釜を叩きながら静かに語りかけたと言われています。
困窮状態にあった政孝が、3級ウイスキーを造るべきかどうか悩んでいた時も、リタは共に悩み励まし続けました。
数々の苦難を常に政孝と乗り越えてきたリタですが、晩年は肺や肝臓を病み、1961(昭和36)年1月17日、政孝らに見守られ愛した余市の自宅で64歳の生涯を閉じました。
政孝は涙に暮れて自室に閉じこもり、葬儀の相談すら行いませんでしたが、リタの棺が出る時には何度も撫で続けたと言われています。
その18年後、政孝もまたリタの眠る余市で共に永遠の眠りについたのでした。
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