menu list買取商品 - 弘前20年 長期貯蔵 アップルブランデー ニッカ
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弘前20年 長期貯蔵 アップルブランデー ニッカの高価買取致します
弘前20年 長期貯蔵 アップルブランデー ニッカのご紹介
買取参考価格 | 18000円前後
生産国 | 日本 |
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生産者名 | ニッカウヰスキー/弘前工場 |
地方 | 青森県 |
地区 | 弘前市 |
分類 | アップルブランデー |
タイプ | 700ml/58度 |
ニッカウヰスキー創業当時の社名である「大日本果汁株式会社」の由来ともなった国産りんご果汁を100%使用してつくられた、貯蔵年数20年以上の樽出しアップルブランデー「弘前20年」です。
700mlのボトルにアルコール度数58%で瓶詰めされたこちらのブランデーは、創業70周年にあたる2004年6月25日に15,000円で販売数量1000本限定にて発売されました。
アップルブランデー特有の甘く華やかなボリュームのある香りが、長い熟成期間を経てより優美に立ち上がる深い味わいに仕上がっております。
弘前20年 長期貯蔵 アップルブランデー ニッカの歴史
華やかな甘い香りが楽しめるアップルブランデー
■ニッカウヰスキーの原点を祝う逸品
2004年(平成16年)6月25日に数量限定で販売されたのが「NIKKA(ニッカ) 弘前20年 長期貯蔵 アップルブランデー」で、販売数は1,000本、発売時の希望小売価格は700ml入り15,000円でした。
アルコール度数が58%と高めながらも、国産のリンゴ果汁を100%使用しているだけあって、甘く華やかな香りが楽しめるアップルブランデーとなっています。
ニッカウヰスキーとリンゴは切っても切れない関係にあると言っても過言ではありません。
何しろニッカウヰスキーの前身はリンゴジュースやリンゴゼリー、リンゴワインを造っていた大日本果汁株式会社だからです。
ニッカの社名は大日本果汁の「日」と「果」を取って、親しみを込めて「ニッカ」と呼ばれるようになりました。
1934年(昭和9年)7月、ウイスキー製造を始めることを決意した政孝は、北海道余市郡余市町に大日本果汁株式会社を設立します。
「NIKKA(ニッカ) 弘前20年 長期貯蔵 アップルブランデー」は、大日本果汁株式会社の創業70周年にあたることを記念して限定販売されました。
20年の熟成期間を経て生まれたアップルブランデーは、リンゴの持つフルーティでスイートな香りと奥深い味わいが楽しめる逸品に仕上がっています。
■設立当初の大日本果汁株式会社
本物のウイスキーを造るためにはよい環境が必要と考えた竹鶴政孝は、会社設立にあたってウイスキーの故郷・スコットランドに似た気候の土地を探しました。
そして探し求めた末に見つけたのが北海道余市郡余市町で、現在のニッカウヰスキー余市蒸留所がある場所です。
政孝は1934年7月に大日本果汁株式会社を設立し、代表取締役専務に就任します。
支援者でもあり筆頭株主でもあった加賀証券株式会社の加賀正太郎は、彼の妻が政孝の妻・リタから英会話を習っていた1924年からの知り合いでした。
そのため政孝が事業を始めることを聞いたとき、2人の出資者を伴って支援を申し出たと言われています。
しかし政孝が目指したのはウイスキーづくりであって、リンゴジュースを造ることではありません。
ですがウイスキーは製造してから出荷できる状態になるまで、最低でも数年単位の時間が必要となります。
その期間何も収益を得る方法がなければ、ウイスキーを造ることもままなりません。
そこで政孝が考えたのが余市の特産品だったリンゴを使ってリンゴジュースを造り、その売却益を得るというものでした。
そのためには地元のリンゴ農家からリンゴを買わなければなりませんでしたが、政孝は傷がついたものでもリンゴ農家の自己申告をすべて信用して買い取ったのです。
売り物にならないリンゴを残らず買い取ってくれるリンゴジュース工場の社長の申し出に喜んだリンゴ農家が、馬車に大量のリンゴを積んで大日本果汁の工場前に行列を作ったと伝わっています。
■返品の山となったリンゴジュース
大日本果汁が手掛けたリンゴジュースが出荷されたのは1935年(昭和10年)5月のことで、販売にあたって「日果林檎ジュース」と名付けられました。
ところがあらゆることに妥協を許さない政孝のこだわりが、リンゴジュース造りにも災いします。
他社が6銭で果汁入りの清涼飲料水を造っていたのに対し、リンゴ果汁100%の日果林檎ジュースは30銭という高価格でした。
しかも一切混ぜ物をしていなかったために時間の経過とともにジュースが濁りだし、傷んでいると思った消費者や小売店からの苦情が相次いで寄せられます。
そしてリンゴジュースは大量に返品され、山となって積み上がったのでした。
さてこの返品の山をどうするかという算段に入ったところで、ようやくリンゴジュースを使って蒸留酒を造るということに行きつきます。
そしてその際にわずかな量のウイスキーも仕込むというのが、政孝の考えついた策でした。
余市で政孝が最初にウイスキーを製造して販売した1940年(昭和15年)まで、実に5年もの歳月がかかっていました。
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