menu list買取商品 - ニッカ G&G 黒ビン
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ニッカ G&G 黒ビンの高価買取致します
ニッカ G&G 黒ビンのご紹介
買取参考価格 | 3500円前後
生産国 | 日本 |
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生産者名 | ニッカウヰスキー株式会社 |
分類 | ブレンデッドウィスキー |
タイプ | 750ml/43度 |
ニッカ「G&G(GOLD&GOLD) 白ビン」の姉妹品である「G&G 黒ビン」は、1975年から1997年まで販売されていた終売品のブレンデッドウイスキーです。
G&G白ビンとの違いは、名称の通り黒い瓶に瓶詰されていること、そして香りです。
黒ビンは、軽く華やかな香りにマイルドな味わいが特徴のウイスキーとなっており、水割りにすると白ビンと黒ビンの違いがはっきりとわかりますので、飲み比べて楽しむのもいいですね。
※50mlのミニボトル、760mlボトルは買取価格が異なります。
ニッカ G&G 黒ビンの歴史
ニッカファン御用達の貴重な完全終売ブレンデッドウイスキー
■多くのファンに愛されたウイスキー
NIKKA(ニッカ) G&G 黒瓶は1975年から1997年まで販売されていた、ニッカウヰスキーのブレンデッドウイスキーです。
ニッカ G&G(ゴールド&ゴールド) 白瓶の姉妹品にあたり、白瓶と異なる点はその名の通り黒い瓶に瓶詰めされていることで、風味や香りも白瓶とは一味違った味わいが楽しめます。
NIKKA(ニッカ) G&G 黒瓶はニッカ G&G 白瓶に比べると、軽い口あたりとマイルドな味わい、そして華やかな香りが特徴です。
G&G黒瓶は1975年(昭和50年)9月に発売されたウイスキーで、黒瓶を採用したこと以外はG&G白瓶と同じ水準の酒質となっています。
ほろ苦いピートのフレーバーに、シロップやバニラウエハースを思わせる甘さも感じることができますが、独特のスモーキーな香りはそれほど強くなく、アロマが徐々に華やぐ仕上がりとなっています。
■マッサンと呼ばれたウイスキーの父
ニッカウヰスキーの創業者・竹鶴政孝は、日本のウイスキー造りを語るのに忘れてはならない人物です。
大正時代、模造品のウイスキーばかりが出回っていた日本で、本物のスコッチ・ウイスキーを造るべく奮闘し続けたのが誰あろう竹鶴政孝でした。
今では日本のウイスキーは「世界の5大ウイスキー」の1つとなり、「ジャパニーズ・ウイスキー」としての地位を確立しています。
それはひとえに竹鶴政孝がスコットランドで得たウイスキー造りの技術と、ウイスキー造りにかけた情熱が結晶となったと言っても過言ではありません。
そしてそのスコットランドでの研修中に出会った運命の女性と結婚した政孝は、当時の日本では非常に珍しい国際結婚を果たした人でもあります。
彼の妻となったリタは、「まさたかさん」と呼ぶのが難しかったことから、彼を「マッサン」と呼んでいました。
ウイスキー造りに人生を捧げた竹鶴政孝の物語はNHKの朝の連続テレビ小説でドラマとなり、そのタイトルはリタが彼を呼んでいた「マッサン」だったのです。
ウイスキーを造るために生まれてきた
竹鶴政孝が生を受けたのは1984年(明治27年)のことで、広島にある竹鶴酒造の三男坊として誕生しました。
兄弟は四男五女で、父親の竹鶴敬次郎は厳格な職人であったことから、政孝はものづくりの神髄を学びながら育ちました。
広島の水は酒造りには不向きな軟水でしたが、父の敬次郎は努力の末軟水での酒造りを成功させたのです。
上の兄二人が家業の酒造会社を継ぐことを嫌がったため、三男の政孝が家業を継ぐべく大阪高等工業学校(後の旧制大阪工業大学・現在の大阪大学工学部)の醸造科で勉学に励むことになりました。
成績優秀で卒業を間近に控えていた政孝は、まだ卒業しないうちから摂津酒造への就職を果たします。
摂津酒造は大阪で洋酒を扱っていたことから、卒業前にはすでに洋酒に興味を抱いていた政孝にとって最適な就職先でした。
そして希望通り洋酒の製造を任され、工場内はもちろんさまざまな文献を読んで研究する政孝は、入社後ほどなくして技師に抜てきされたのです。
父から学んだ酒造りの神髄と大学で学んで得た知識が、のちに「日本のウイスキーの父」として政孝が名をはせることに貢献するとは、その当時本人でさえ知る由もありませんでした。
■ウイスキーの本場・スコットランドへ
洋酒を製造する工場に入り浸り、摂津酒造で熱心に洋酒造りの研究・製造を続けていた政孝でしたが、ある年の夏、摂津酒造の店先で製造された葡萄酒が破裂していくという事態が起こります。
製造過程での殺菌が不十分だったことから酵母が発酵して破裂してしまったのです。
その当時摂津酒造では壽屋(現・サントリー)から依頼を受け、赤玉ポートワインを造っていました。
次々と破裂していく中でなぜか赤玉ポートワインだけは1本も破裂することがなく、それがなぜなのか調べたところ、政孝が徹底的なアルコール消毒を行っていたことがわかったのです。
そのおかげで酵母が発酵することなく、破裂することもありませんでした。
この一件から酒造りの技師としての政孝の腕の高さが一気に広まり、アルコール醸造ができる技師であることから徴兵を免れていたこともあって1918年(大正7年)、神戸港からスコットランドへウイスキー造りの挑戦に旅立ちました。
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