menu list買取商品 - ニッカ グランドエイジ
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ニッカ グランドエイジの高価買取致します
ニッカ グランドエイジのご紹介
買取参考価格 | 10500円前後
生産国 | 日本 |
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生産者名 | ニッカウヰスキー株式会社 |
分類 | ブレンデッドウィスキー |
タイプ | 660ml/45度 |
1989年に販売し、1996年に販売を終了した商品です。
ウィスキーの級別廃止や従価格の廃止などにより、これまで以上に品質と美味しさが求められると見通し、数年をかけて造り上げられた商品です。
「グランドエイジ」という名前には、成熟した人を意味しており、成熟した大人のためのウィスキーを指しているのではないかと言われています。
シェリー樽特有の華やかな香りに深いコクとまろやかな味わいが特徴のブレンデッドウィスキーです。
ニッカ グランドエイジの歴史
ニッカのブレンダーの技が凝縮されたブレンデッドウイスキー
■特別な日にふさわしい高級ブレンデッドウイスキー
NIKKA(ニッカ) グランドエイジは1989年(平成元年)から1996年(平成8年)まで発売されたブレンデッドウイスキーで、「成熟した人」を意味する名前が付けられています。
シェリー樽の中で長期間貯蔵し熟成させたモルト原酒を使って、伝統の技を持つニッカの熟練ブレンダーが究極の技を凝縮して生まれたのがこちらのウイスキーです。
ニッカの高級ブレンデッドウイスキーとして多くのファンに愛されたNIKKA(ニッカ) グランドエイジは、いまだに終売となってしまったことを惜しむ声が後を絶ちません。
木箱に詰められたNIKKA(ニッカ) グランドエイジに添えられている冊子には、ニッカウヰスキーのこだわりがひしひしと感じられます。
まさに大人が楽しむ大人のためのウイスキーと言ってもよい逸品で、特別な日に特別な人とグラスを傾けるのにふさわしい仕上がりとなっています。
■品質にこだわり続けた妥協しない技術者
ニッカウヰスキーの創業者・竹鶴政孝は、広島にある竹鶴酒造の三男として1894年6月20日に生まれました。
長兄と次兄が酒造会社を継ぐことを拒んだため、三男の政孝が家業を継ぐことになったのです。
大阪高等工業学校(後の旧制大阪工業大学、現在の大阪大学工学部)の醸造科で勉学に励み、卒業する頃には新しい酒である洋酒にも興味を持っていました。
その当時洋酒を扱っている酒造会社は少なかったのですが、その中でも洋酒界の雄と言われたのが摂津酒造で、洋酒にかかわりたいと願っていた政孝は摂津酒造に就職することになります。
大阪高等工業学校時代の先輩である岩井喜一郎が摂津酒造で常務を務めていたため、彼を頼っての入社でした。
まだ大阪高等工業学校の卒業を春に控えた1916年3月のことです。
摂津酒造に入社した政孝は念願通り洋酒の製造にかかわることになります。
もともと地道な作業をこつこつとこなす能力を備えており、さらに好奇心も旺盛で気の強い性格でもあったことから、これと決めたらてこでも動かない頑固な人でした。
この政孝の持って生まれた性格が、のちのウイスキー造りにおけるこだわりと妥協のない高い品質のウイスキーを造り出す礎となったのです。
■入隊せずに済んだ技師としての腕
1916年3月に摂津酒造に入社した政孝ですが、その年の12月には徴兵検査を受けることになっていたため、実質はそれまでの間の期間だけの限定入社となっていました。
そして12月に徴兵検査を受けた政孝でしたが、甲種試験に受かることはすでに確信していたのです。
幼い頃から柔道などの柔術に励み、体力にも自信があったからというのが理由ですが、政孝の履歴書を見た検察官は彼がアルコール製造ができる技師であることに注目します。
アルコール製造は火薬製造をする際に必要かつ重要な技術であったため、むしろ入隊させずにアルコール製造に従事させた方が、軍需産業を活性化させることができると判断したからでした。
そして乙種合格となった政孝は軍隊に入隊せずに済み、そのまま翌年の冬に帰京するまでの1年間を摂津酒造で勤務すると伝えます。
摂津酒造の社長・阿部喜兵衛にその旨を伝えると快く受け入れられ、政孝はそのまま勤務継続となったのでした。
■徴兵を免れたことから開けた道
19世紀に日本に伝わったウイスキーでしたが、実際に出回っていたのは模造品のウイスキーばかりでした。
そこで摂津酒造では本格的なウイスキー造りを始める計画を立て、純国産ウイスキーを造るために政孝にウイスキーの本場・スコットランドで研修を受けるよう命を出します。
1918年(大正7年)、神戸港から単身スコットランドに渡った政孝は、グラスゴー大学で有機化学と応用化学を学んでいましたが、残念なことにグラスゴー大学にはウイスキー造りを学べる専門講座がありませんでした。
政孝は大学のウィルソン教授から「ウイスキー並びに酒精製造法」(邦題)というJ.Aネトルトン著の本を薦められますが、本での勉強はある程度の知識は得られてもそれ以上は望めないとの思いを拭いきれません。
彼が求めていたのはあくまでも実地で学ぶことで、その実地体験ができなければ意味がないと考えたのです。
酒造りを家業とする家に生まれ育った政孝は、実体験こそが何よりも生きた知識になるということを嫌というほど知っていたのでしょう。
J.Aネトルトンに頼んではみたものの、あまりの高額な授業料に断念し、彼は蒸留所へ片っ端から手紙を送り工場を訪ねて歩くことにします。
そしてようやく雇ってくれるところが見つかったのでホワイトホース社のヘーゼルバーン蒸留所で、見習いとして政孝が働けるようになったのは1920年(大正9年)のことでした。
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