menu list買取商品 - ヴィンテージ薩摩 1984 原酒シングルモルト20年 1,752本限定 マルスウイスキー
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ヴィンテージ薩摩 1984 原酒シングルモルト20年 1,752本限定 マルスウイスキーの高価買取致します
ヴィンテージ薩摩 1984 原酒シングルモルト20年 1,752本限定 マルスウイスキーのご紹介
買取参考価格 | 60000円前後
生産国 | 日本 |
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生産者名 | 本坊酒造 |
地方 | 鹿児島県 |
地区 | 鹿児島市 |
分類 | トリプルカスク・シングルモルトウイスキー |
タイプ | 720ml/55度 |
マルスウイスキー「ヴィンテージ薩摩 1984 原酒シングルモルト20年」は、1984年に鹿児島の地で蒸留した後、20年間シェリーカスクに貯蔵されたモルト原酒の中から厳選された3樽をヴァッティングしたトリプルカスク・シングルモルトウイスキーです。
日本のウイスキー造りの歴史の中でも北緯31度30分に位置する最南端の地、熱き薩摩の魂のこもる鹿児島で造られた正真正銘「薩摩のウイスキー」は、2004年に本数1,752本限定で瓶詰めされた貴重な1本でもあります。
まさに雄大な桜島を想像させる重厚な味わいとスモーキーなピート香の中に、20年にもおよぶ刻が育てた芳醇な熟成香が見事なバランスで調和した逸品です。
ヴィンテージ薩摩 1984 原酒シングルモルト20年 1,752本限定 マルスウイスキーの歴史
厳選した3樽のモルト原酒をヴァッティングさせた貴重な数量限定のジャパニーズウイスキー
■鹿児島の蒸溜所で造られたウイスキー
「ヴィンテージ薩摩 1984 原酒シングルモルト20年」は、本坊酒造株式会社が所有する鹿児島県の蒸溜所で造られたシングルモルトウィスキーです。
1872年(明治5年)に創業した本坊酒造は、日本本土最南端北緯31度30分の地で鹿児島の素材や文化を大切にしながら長きにわたって焼酎造りに励んできました。
1984年(昭和59年)に同社が誇るウィスキーブランド「マルスウィスキー」を鹿児島の地で蒸溜した後、シェリーカスクで20年間貯蔵されたモルト原酒の中から厳選された3樽(トリプルカスク)をヴァッティングして完成させたのがこの「マルス ヴィンテージ薩摩 1984 20年 トリプルカスク シングルモルト」です。
薩摩は明治維新の立役者となった西郷隆盛でも良く知られる地で、火の山・桜島が象徴する熱い魂がこもったまさに「薩摩のウィスキー」となりました。
2004年の出荷時には本数1,752本の限定品だっただけに、今では入手することが困難な大変貴重な1本でもあります。
ピート(泥炭)が生み出す燻し香が効いたスモーキーな香りと、20年の長期熟成が育んだ重厚感あふれる味わい、さらにシェリーカスク由来の芳醇な熟成香が見事なハーモニーを奏でる逸品です。
■ジャパニーズ・ウィスキー創始者の人柄
本坊酒造が誇るマルスウィスキーの生みの親・岩井喜一郎は、「日本のウィスキーの父」と称されるニッカウヰスキーの創業者・竹鶴政孝とかなり近しい人物でした。
喜一郎が大阪高等工業学校醸造学科の1期生、政孝は15期生として卒業しており、政孝が摂津酒造に入社したのも先輩である喜一郎を頼っていったことがきっかけです。
本格的なウィスキーブームの到来を予見した摂津酒造の社長・阿部喜兵衛と常務の岩井喜一郎は、摂津酒造のウィスキー製造技師となっていた竹鶴政孝をスコットランドに派遣します。
政孝はもともと頑固な性格で、ことウィスキー造りとなると頑固一徹な性格にさらに拍車が掛けりました。
スコットランドでの修業は簡単ではないことを理解していた阿部と岩井は、スコットランドに行かせるのは竹鶴しかいないと考えたのも不思議ではありません。
2人の考えた通り、政孝はスコットランドでのウィスキー修業に没頭し、複数の蒸溜所で見学をさせてもらいました。
しかし根っから探求心が強かった政孝にとって、ただ見ているだけのウィスキー造りでは到底満足することはできません。
そこで蒸溜所を一つひとつ回って実際にウィスキー造りの修業をさせてくれるように頼んで回りますが、すでにスコットランド人技師を抱えている蒸溜所が政孝を受け入れてくれることはありませんでした。
それでも政孝は決して諦めず、ついにスぺイサイドにあるロングモーン蒸溜所が受け入れてくれたのです。
竹鶴政孝は頑固で融通が利かないと性格だったといわれていますが、それは政孝が信念を貫き通す強い意志を持っていたことを表しています。
■愛妻家としても知られた竹鶴政孝
政孝の愛妻・リタはスコットランドから日本にやってきた女性で、政孝は折に触れて彼女に贈り物をしたといわれています。
当時は大変珍しかった国際結婚をした2人は、政孝はもちろんのこと特にリタが人々の注目を集めました。
そんなリタを思いやり、日本に戻った政孝は洋風の新居で暮らし始めます。
食後は2人でウィスキーを傾け、北海道余市で大日本果汁を設立した数年後にはリタも余市に移り住みました。
太平洋戦争中にはリタがスパイ容疑を掛けられたこともありましたが、政孝はリタが正真正銘の日本人「竹鶴リタ」であることを力説して彼女を守りました。
スコットランドの両親の反対を押し切って遠い異国の地・日本にやってきたリタは、人生最後の日を迎えるまで故郷の地を踏むことはありませんでした。
政孝はリタが亡くなったとき「おばあちゃんが死んじゃった」と、泣きじゃくりながら家じゅうを歩いたといわれています。
そして自らの死期に際し、息子や孫に「国際結婚だけはするなよ」といい残します。
政孝はリタと結婚したことを悔いていたのではなく、国際結婚をしたことでリタに多くの苦労を掛けてしまったことを悔いたのでしょう。
そして自分とリタが味わった苦労を、子どもたちにさせないようにと考えたに違いありません。
しかしリタは政孝のそばにいることをいつも望み、一生を掛けて彼を愛し抜いたのでした。
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